郊外へお出掛けなのだ
南伊豆〜白浜 前編

車は西湘バイパスを走る。今しがた通り過ぎてきた大磯のイチコク沿いに、ある印鑑屋があったことを思い出した。初めて実印を頼んだところである。はじめは“ツキを呼ぶ実印”なぞという広告を色々と見ていて、はたしてどこに頼もうかと迷っていたのだったが、ある取引先がその大磯の店を紹介してくれた。聞けば齢九十を過ぎたおじいちゃんが手彫りをするというのだが、実にいい書体を彫るのだという。休日にそのお客さんに同行してもらい、ドライブを兼ねて出掛けてみた。平成のはじまりの春のことである。
大磯らしい松の並木道沿いにその店はあった。木造平屋の大変質素な造りで、表の喧噪とは薄いガラス戸一枚で隔てられているだけである。雑然とした狭い店内を眺めていると、格子戸を開けてそのおじいちゃんが出てきた。杖をついておばあちゃんに支えられたその姿を見て、はたして大丈夫だろうかと心配してしまう。しかし話しをすると何とも暖かく優しい話し方である。善良な人柄が全身からにじみ出ているようだ。そこで僕は“ツキを呼ぶ印鑑”なぞという怪しいものは忘れ去り、そのご老人に全てを任せることにしたのだった。
何年か後、そのご老人は亡くなったと聞いた。今でもその印鑑は宝物のように大事にしている。僕の名前は殆ど角張った部分で構成されているのだが、それらの角が柔らかいアーチを描いており大変に優しい書体で彫られている。あのご老人が手先を過たずに正確に彫り上げていく姿が目に浮かぶようなのである。僕はこの先新たに実印を作ることはないであろう。
古い旅路を進んでいくと、思いがけず過去の事柄が思い出されるようだ。これもセンチメンタル・ジャーニーらしくていいのだ。左手に見えている海の色は次第に濃い色に変化している。深さや透明度などが違うのか知らん。真鶴まで来るともはや碧と言ってもいい色になった。思わず声をあげる。これだから旅はいい。
時刻は午後三時。ずっと走りづめだが苦労はない。有料の真鶴道路に入る手前で突然旧道に入ることにした。海岸沿いを離れてみかん畑のあいだを道は上っていく。そういえば以前来たときもこうして旧道を走ったはずだ。コーナーを過ぎるごとに見覚えのある風景が広がって楽しい。左手遥か下方には群青色の相模湾。沖には初島が見えている。ガソリンをケチって回転数を上げないように走っていると、日産キューブは苦しそうである。
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