Allegro,con brio!



鳥は星のかたちをした庭に降りる


 中年の声が聞こえてくると、パーソナルなことを大事にするようになるらしい。いつかはやめようと思いながらも、人知れず続けてきたマッチ箱のラベル集めのようなものを、ある日友人に堂々とカミングアウトしたりする。「一度きりの人生なんだから、他人がどう思っても関係ないな」といったところだろう。ラベルとかフィギアならただの趣味で済むのだが、人が大事に思うことは実に様々、奇想天外。あなたの友人がある日とんでもないことを公表するかもしれないが、そのときは何も含まずに単純に未知の世界のこととして聞いてあげよう。
 音楽というものもまた、きわめてパーソナルなものだと思うことがある。例えば自分で一度でも演奏したことのある楽曲というのは、いつ聴いても楽しい。「おお、小澤征爾はここで金管を出してくるのか・・・」なんていう指揮者や楽団の聴き比べも出来たりするのだ。だからどんな音楽でも、その曲に対しての関わり合いみたいなものが感動の度合いに大きく影響する。洋楽のポップスだって、歌詞を知っているのと知らないのでは聴いたときに全然違う。そういった動的な関わり合いを、武満徹は愛だと言っていた。
 武満徹(〜1996)は若い頃、ピアノもなしで作曲していた。金がなくて買えなかったのだ。ある日のこと、尊敬していた先生を訪ねて玄関先で譜面を見てもらった。すると先生は彼を部屋に入れ、そのピアノ曲を弾いてくれたという。武満はそのときに初めて自分の曲がどんな音なのか聴いた。先生は一言「きれいな音だねえ」。すごい話しだと思う。
 昨年初めて彼の“オーケストラと笙のためのセレモニアル”という曲を聴いた。N響のロシア公演だ。出だしから、笙の音色が水のように浸透してくる。日本的でもあるし、全く違うものにも聴こえる。業を抱えながらも浄化に憧れる人間そのもののような、実に生々しい世界が展開する。そしてその後の弦の美しさ。その旋律はあくまでもロマンティックだが、浸る間もなく展開していく。追いかけられない。「きれいな音だねえ」と言った彼の先生の言葉が聞こえてくるようだった。武満は本当に音を愛したのだなあと実感した。
 音楽、文学、絵画、映画など、創作物というのは、受け手とのきわめてパーソナルな関係で成り立っていると思う。“オーケストラと笙のためのセレモニアル”だって、人によっては不気味な不協和音の連続にしか聞こえないかもしれない。一万人の聴衆がいれば、その数だけ感じ方があるのだ。だから僕は堂々と「これには感動した」と宣言していくつもりなのだ。

 参考文献 新潮文庫『音楽』小澤征爾、武満徹 


 Sweet Love