Cheers!
海流のなかの島々

「どうして一杯やらないんだ、トム?」(中略)
「椰子の実あるか、汁の多いやつ?」
「ある」
「椰子汁でジンを割ったのを一つ頼む。ライムを落としてな、ライムがあればの話だが」
〜というわけでハドソンは、冷たく爽やかな味のする酒をすすり、直前方から西側に渡って断続する小島の列を見つめるのだった。
これはアーネスト・ヘミングウェイの『海流のなかの島々』洋上編の終盤のシーンだ。主人公ハドソンは、今回の出動では酒を飲むまいと決めていた。飲めば「必ず今まで念入りに封じ込めてきた思い出がよみがえってしまう」からだ。身体を酷使し、仕事以外のことを考えないよう努め、夜はくたくたになって寝てしまうようにしていたのだが、たまたま一杯飲んでしまう。すると死んでしまった子供のこと、別れた妻のこと、若い頃のパリの風景ととめどなく思い出がよみがえる。そして自分に厳しく課したルールを破ったために、死に直面することになる。
まあ日常ノンポリ日和見で生きている僕は死に直面することなぞないのだが、この
“飲むたびに、必ず今まで念入りに封じ込めてきた思い出がよみがえってしまう”
という文章、胸にダイレクトに刺さってきますなあ。「でも、それでも飲まずにはいられないノダ」、なんていう酒飲みの心理は、右党の方にはおよそ訳の分からない心理でありましょう。そりゃそうだ、自分でもそう思うもの。
この椰子汁でジンを割ったもの、何というカクテルなんだろう。一度飲んでみたいものだ。ちなみにハドソンは船乗りだが、陸上ではダイキリ、トムコリンズ、ジン・トニックを愛飲している。いずれも爽やかな味のカクテルで、海や川を愛したヘミングウェーらしい好みである。
何年かおきにこの小説を読むのだが、そのたびにこれらのカクテルがどうしようもなく飲みたくなる。しかしシチュエーションも大事。いつものバーで飲むんじゃあ、ちょっと違う。やはり日差しの中、風の吹く中で飲みたい。水縁のくたびれたディレクターズチェアに腰掛け、目は水面を眺めながらも心は違う風景を見ている。丈夫さだけが取り柄のグラスは汗を一杯かいている。対岸では友人がフライを投げて今夜の獲物を求めている。
そういやあいつは『ぺしゃわーる』のモスコミュールがひどく気に入っていたな。自家製の出来たてジンジャーエールを使っていて、そりゃあ美味かったものだ。あの飲み物は今でも作っているのだろうか(一口ぐいっと飲む)。きっとあるな。何でもなくなっていってしまうものでもあるまい。昔よりはだいぶ安くなっていることだろう・・・。
記憶は匂い、光、風からよみがえる。こうして酒飲みは今日も自分との対話を続けていくのである。Cheers!
参考文献
新潮文庫『海流のなかの島々』上下 アーネスト・ヘミングウェー 訳/沼澤こうじ
ぺしゃわーる/中央区日本橋3-1-4/03-3242-1212/
長いお別れ
輝ける闇
チンザノをどうぞ